朝になると、いつものように飲食店の制服に袖を通します。
鏡に映るわたしは、今日もまた、見慣れたお店の店員。
「いらっしゃいませ」と、持ち前の営業スマイルで声を張り上げます。
けど、心の奥底には、小さなため息が。
今日も、わたしの持ち場はレジ。
流れ作業のような日々に、ほんの少しの閉塞感があります。
活気あるパートさんや学生アルバイトの方々を横目に、
「もっといろいろなことをしてみたい・・・」
という思いがありました。
40歳を過ぎて、社会経験の少なかったわたしにとって、このお仕事は生活を支える大切な糧です。
シフトの融通も利き、わずかながらも家計の助けになります。
店長は、わたしの希望に耳を傾けてくださいます。
頭では理解しています。それでも、心の奥底では別の声が響くのです。
「本当に、これで良いのか?」
「もっと、わたしにできることがあるのではないでしょうか?」
まわりの成長を目の当たりにするたびに、置いていかれるような不安がよぎります。
もっとも、意外なことに、わたしはこのレジという場所を心底嫌っているわけではない。
むしろ、普段は人見知りなわたしにとって、お客様と適切な距離感で接することができるから。
レジという空間は、ある種の安心感があります。
過度なコミュニケーションを必要とせず、事務的な作業に専念できる。
「ご注文はいかがいたしますか?」
「はい、〇〇ですね」
まるで録音された音声のように、決まったフレーズを繰り返す。
他人にあまり興味のないわたしにとって心地よいのかもしれません。
「緊張しているときは、周囲をかぼちゃと思えばいい。」
子どものとき、誰かから言われたよくあるアドバイスを接客で実践していると、
まさに、お客様がカボチャのように見えることさえありました。
決して失礼な意図ではなく・・・
ただ、そう思うだけで、相手の感情に過度に左右されることなく、淡々と業務を続けることができるのです。
もちろん、理不尽なことで声を荒げるお客様もいらっしゃいます。
そんな時も、わたしは比較的冷静でいられます。
「怒鳴るのは、その方の課題。」
どこか客観的に捉えることができます。
わたしって他人様への興味が薄いんだな。
共感力が低く、周囲のパートさんのように細やかな気遣いができるタイプではない。
どちらかと言えば、人との間に一定の距離を置いて接することを好む性格です。
そんなわたしが、まさか飲食店のレジ業務に、これほどまでに魅了されるとは、思っていませんでした。
飲食店のレジ業務は、ある程度会話の流れが定型化されています。
接客7大用語や敬語の使い方など、基本的な言葉を習得してしまえば、後は比較的スムーズに対応できます。
何を話せば良いのか戸惑うことが多いわたしにとって、マニュアル化された会話の流れは、まさに救世主のような存在でした。
お客様ひとりひとりと接する時間が短く、長時間にわたる会話を必要としない点も、人間関係で疲れやすいわたしにとって、ストレスを軽減してくれる大きな要因となっています。
金額を読み上げて、QRコードをピッとする作業が多く、黙々と作業に取り組むことを好むわたしの性分に合っています。
「ありがとう。おいしかったよ。」
なにより、お客様からの感謝の言葉は、日々の業務の励みとなります。
自分の仕事が誰かの役に立っているという実感が大きなやりがいへと繋がっているのです。
自己肯定感を育み、以前よりも前向きな気持ちで日々を過ごせるようになりました。
多種多様なお客様と接するうちに、以前は苦手意識の強かったコミュニケーション能力が、少しずつ向上しているのではないか。
ぎこちなかった笑顔での対応も、今では自然にできるようになり、年齢も職業も異なる様々な人々との短い触れ合いを通して、人と話すことへの抵抗感が少しずつ薄れていきました。
飲食店のレジを担当して数ヶ月後、わたしはある疑問を抱くようになりました。
他の業務も教えてもらっているのに、なぜいつも私の持ち場はレジなのだろう?
意を決して店長に尋ねてみたところ、意外な答えが返ってきました。
「朝日向さんは、いつも笑顔で、どなたが見ても感じが良い。
声のトーンも聞き取りやすく、注文を復唱してくださるから、商品の準備ミスも防げる。
その分、お客様ひとりひとりに丁寧に対応してくださるし、メニューの確認や準備にも時間がかけられるから、結果的に全体の業務がスムーズに進むのですよ。」
店長の言葉は、わたしにとって衝撃でした。
まさか、わたしが当たり前だと思っていた自分の特性が、飲食店の接客において強みとして認識され、活かされていたとは。
それまで、わたしは自分のことを、コミュ障で、人付き合いが苦手な人間だと思っていました。
飲食店の接客を通して、自分の持つ特性が、誰かの役に立ち、仕事の効率化に貢献できることを知ったのです。
「いつも同じ場所で、なんだか物足りない・・・」
と、もし感じていらっしゃる方がいらっしゃいましたら、わたしはお伝えしたいのです。
あなたは決して、能力が低いわけではない。
もしかしたら、それはお店の都合や人員配置のタイミングによるものかもしれないことを。
「少しでも違うお仕事に挑戦してみたい!」
もし、心の奥底で、そんな気持ちが芽生えているのでしたら、勇気を出して、信頼できるどなたかにその思いを打ち明けてみてください。
小さな一歩が、思いがけない扉を開くかもしれません。
わたしたち、ひとりひとりが持つ個性は、きっとどこかで誰かの役に立っている。
たとえ、今は、見慣れた場所で、単調な繰り返しの毎日に感じられたとしても、その中で培ってきた経験や、自分では気づかない強みが、きっとあるはずです。
もし、心の奥底で違う景色を見たいと願うなら、その小さな声をどうか大切にしてください。
「たまには厨房入りたい・・・」
いつもレジのわたしがそう申し出てみる。
そんな小さな行動が、新しい仕事を覚えるチャンスに繋がり、見える景色が変わるかもしれません。
明日の勇気が、未来の可能性を広げるのです。